今日は、愛犬たちがトリミングに行ってきました。

朝のうちに預けて、帰ってきた子たちを見ると、毛はふわふわ、顔まわりはすっきり。
いつもより少しだけよそ行きの顔をしています。
なのに、目だけは変わらない。
「きれいになったよ」と自慢しているのか、「早くごはん」と言っているのか、その境目がわからないのが、うちの子たちらしいところです。

夕方、夕食を作りはじめると、足元に気配がしました。

花柄のマットの上で、いちばん小さな子がこちらを見上げている。
鼻の先に、白い何かがついている。

米粒なのか、お肉のひとかけらなのか。
本人は気づいていないふりをして、大きな目だけを向けてくる。
トリミング帰りのきれいな顔に、その白い粒が乗っているのが、余計に計算高く見えてしまう。

ああ、あざとい。

でも、吹き出してしまう。
叱る気より先に、写真を撮りたくなる。
日常の小さな一瞬は、だいたいこういう形でやってきます。

「あざとい」という言葉は、もともとあまり良い意味ではなかったそうです。
抜け目がない。やり方があくどい。浅はかだ。
そんな響きを長く持っていました。

いまは少し違います。
計算されたかわいさ、相手の心をわかったうえで差し出す愛嬌。
「あざといけど、嫌いじゃない」と、半分ほほえみながら使う言葉になりました。

人のあざとさは、ときどき痛む。
相手を動かすために作った表情は、見抜かれた瞬間に冷たくなることもある。
得を取るためのかわいさは、信頼を少しずつ削っていく。
うまくいけば得をするけれど、失敗したときの残り香が、なかなか消えない。

犬のあざとさは、もう少し正直です。

お腹が空いている。
匂いがする。
見てほしい。
そばにいたい。
それだけを、全身で出している。

鼻についた白い粒は、計算というより失敗に近い。
なのに、見上げた目がかわいすぎて、失敗まで武器になる。
隠そうともせず、ごまかそうともせず、ただ「今、ここにいるよ」と立っている。
その単純さが、かえって強い。

私は、あざといこと自体は悪いと思いません。
ただ、使い方しだいだと思っています。

自分を大きく見せるためのあざとさは、どこかで誰かを小さくする。
困らせて得を取るあざとさは、関係を消耗させる。
相手の優しさだけを当てにして、自分は何も出さないあざとさも、長い目で見れば寂しいものです。

でも、「一緒にいてほしい」を伝えるためのあざとさは、愛嬌に近い。
弱さを隠さず差し出すあざとさは、むしろ誠実ですらある。
「助けて」と言えること、「ほしい」と目で言えることは、生きる力でもあります。

トリミングのあとのふわふわは、人間でいえばおめかしです。
きれいになると、少し得意になる。
得意になると、甘え方が上手になる。
今夜のキッチンで見たのは、そういう種類のあざとさでした。

夕食の匂い。
花柄の床。
引き出しの取っ手。
その真ん中で、鼻先に何かをつけたまま、まっすぐにこちらを見る小さな顔。

許すしかない、というより、許したくなる。
勝ち負けでいえば、私の負けです。
でも、この負けは、残らない。
むしろ、夜の台所を少しだけ明るくします。

日常の光は、立派な出来事の中にだけあるわけではありません。
鼻についたひとかけらと、それを見て吹き出す自分の中にもある。

あざとさは、刃にも花にもなる。
使う人の心が、その向きを決めるのだと思います。
今夜の子は、花のほうを選んで見せてくれました。

次に誰かのあざとさに出会ったら、まず中身を見てみたい。
得を取るためのものか、近づくためのものか。

犬は、だいたい後者です。
だから、私たちは何度でも負けます。
そして、そのたびに、普通の夕ごはんが少しだけ美味しくなる。

もう一人は最近楽天で購入したベッドでスヤスヤ✨