まだ九月です。
カレンダーを見れば、秋分すら先で、街には夏の名残が残っています。
それでも昨晩、おでんを仕込みました。
一足先に、あの出汁の匂いが欲しくなったからです。
季節は、気温より先に、食べたいものでやって来ることがあります。
冷たいものばかり続いていた舌が、急に温かいものを欲しがる。
そういう合図を無視すると、どこかで一日が薄くなる気がします。
鍋に大根、こんにゃく、ちくわ、しらたき、たけのこ、結び昆布。
火を止めてからも、具は出汁を吸い続けます。
一晩置くと、朝には部屋の空気まで少しだけ落ち着いて見えます。
仕込みの良さは、味だけではありません。
翌朝の自分が、すでに半分できている夕食を持っている安心感です。
まだ早いおでんを、少し得意げにテーブルへ置きました。
そこで今日の「光」。
「何処で食べるおでんより美味しい。大根最高」
そう言いながら、頬張って、完食してくれました。
その顔を見ていたら、火にかけた時間が全部、別のものに変わりました。
手間ではなく、届けたものになる瞬間があります。
料理は、味見でも完成するし、盛りつけでも完成します。
でも私にとっては、あの顔を見たときに完成します。
上手に作れたかどうかより、先に届くのは表情です。
言葉は短くていい。
「大根最高」の四文字で、昨晩の仕込みは充分すぎるほど報われました。
その顔が見たくて、お料理を作っているようなものです。
献立を考えるのも、買い物も、下茹でも、本当はそこに向かっています。
誰かの一口が軽くなるように。
食卓の空気が、ほんの少しやわらかくなるように。
だから、外食をしたときにも、同じことをします。
本当に美味しかった料理には、シェフへ伝えるようにしています。
ただし、本当に美味しかったときだけ。
そして、作っていた料理人さんが目の前にいたときに限ります。
社交辞令の「美味しかったです」は、きれいだけれど、薄い。
薄い言葉は、家の台所にも、店の厨房にも、残らないと思うからです。
伝えるなら、本物だけにしたい。
その方が、受け取った側の顔が、たしかに変わります。
家の食卓も、店のカウンターも、根っこは同じです。
誰かが時間をかけて火を入れ、誰かがそれを口にする。
そのあいだに、短い言葉が渡る。
その言葉が本物だと、作り手の一日が少しだけ明るくなります。
私は自分の料理に「美味しい」と言われたいだけではないのです。
美味しいと言いたくなる顔を、この目で見たいのです。
見られた側も、言われた側も、同じ光を分け合う。
食卓の幸せは、たぶんその分かち合いです。
九月のおでんは、少し気が早いのかもしれません。
それでも、先に秋を呼んでしまった夜は、悪くありません。
出汁の匂いが部屋に残って、季節が一つ、前へ進んだ気がします。
何処で食べるおでんより、今夜の大根が一番だったと言われて。
空になった器を下げながら、思いました。
今日の光は、大きな出来事ではなく、この食卓にあった、と。
昨日仕込んで、今日届ける。
その繰り返しの中に、暮らしの小さなお祭りがあります。
明日はまた、残った出汁が鍋の底で待っています。
私の今日の光は、それで充分でした。