眠っているとき、人は鎧を置きます。
言葉も、作り顔も、その日の機嫌も、いったん手放している。
防御を解いた顔は、昼間よりずっと正直です。
その無防備さが、私にはひどく愛おしい。
赤ちゃんの寝顔は、誰が見ても柔らかい。
子どもの寝顔も同じです。
口が少し開いていたり、手が小さく握られていたりすると、胸の奥がほどけます。
世界をまだ疑っていない顔には、こちらまで守られた気持ちになるところがあります。
子どもが大きくなっても、その感覚は残ります。
声が低くなり、肩幅が広がり、もう手を引かなくても歩くようになっても、眠っている顔だけは、昔のままの子どもに戻る。
私は、その戻り方を、何度も見てきました。
歳月は身体を変えても、眠りだけは、いちばん最初の顔を残しておくようです。
愛犬も同じです。
腹を見せて、足を投げ出して、世界を信用しきった顔で眠っている。

寝言を言ったり、小さなイビキを立てたりすると、思わず笑ってしまう。
子どもも犬も、眠っているときの音は、昼間の言葉より正直で、だから微笑ましくなります。
起きているときの演技ではない、抜け落ちた音。
それが、暮らしの端に置かれた小さな光になります。
異性に対しても、それは変わりませんでした。
元夫の寝顔も、私は好きでした。
喧嘩をした夜でも、子どもを強く叱った夜でも、隣で眠っている顔を見ると、さっきまでの自分が急に小さく見える。
なんて心の狭い人間だったのだろう、と自分が嫌になるくらい、寝顔は一発で帳消しにしてしまう。
怒りの理由は残っているのに、顔だけが先に許してしまう。
それほど、寝顔は強い。
それほど、寝顔は愛しい。
なのに、自分の寝顔を見られるのは、恥ずかしい。
無防備であることは、見る側には光で、見られる側には裸に近い。
イビキをかいたと気づいた瞬間、びっくりして目が覚めるのは、その恥ずかしさのせいです。
愛おしさと恥ずかしさは、同じ無防備の裏表なのだと、近ごろ思います。
不思議なのは、電車の中です。
大人たちが窓に額をつけて眠っている。
同じ無防備なのに、愛おしいとは思わない。
赤子や子どもの寝顔なら、見知らぬ子でも胸が温かくなるのに。
暮らしを共にしていない顔は、ただの他人の休息でしかないのか。
守ってきた記憶のない場所では、無防備は愛にならないのか。
その違いが、今も少し不思議です。
寝顔が光るのは、その人の起きている時間を、私がある程度知っているからなのでしょうね。
喧嘩も、叱った声も、昼間の表情も、全部知ったうえで見る顔だから。
知っているから、鎧を脱いだ瞬間が、こんなにも愛おしい。
今日の光る日常は、誰かの寝顔でした。
自分のは、できれば見られたくない。
それでも、大切な人のそれは、何度見ても、静かに許してくれます。